6月30日(月)、本学科の1年生必修科目「家庭経営学」では、我孫子市白樺文学館・杉村楚人冠記念館館長の辻史郎先生による「志賀直哉『襖』(ふすま)を読む~日本人の境界意識を探る~」の特別講義がありました。
志賀直哉(1883~1971)は「城の崎にて」「暗夜行路」等で知られる小説家です。彼は32~40歳までの8年間、ここ我孫子の地で白樺派文豪の仲間たちと過ごしていたということです。
今回授業で取り上げられたのは英訳版「FUSUMA」としても出版された志賀直哉の小説『襖』(ふすま)です。
この小説は、箱根芦之湯の紀伊国屋旅館での避暑での出来事が描かれており、当時、襖一枚隔てただけの畳敷きの旅館の一部屋で、見知らぬ弁護士一家と隣り合わせで、同じく家族とともに宿泊をしていた「友人」の思い出話で物語が展開されます。
ある晩、「友人」は、夜中に襖が「すーっと開く」「すーっと閉まる」のを目撃しました。これは「友人」に対して恋心をいただいていた隣の家族の女中「鈴」の子どもらしい愛情表現だと「友人」は考えていたのですが、翌日、隣の家族の母親から、襖が開いたのは「友人」の仕業ではないかと疑われ、隣の家族は別の宿に替わるためその朝宿から早々に去っていったのでした。
どうして隣の弁護士一家は急に別の宿に替えて去っていったのでしょうか。
辻先生の解釈では、この状況での襖を「開ける」「閉める」という行為は、襖を壁と同じ、ここからは別空間、これ以上は近寄らないで、という結界の約束事を「友人」が破ってしまった(本当は破ったのは「友人」ではなかったのですが・・・)ので、「友人」に対して気味が悪くなって去っていったのではないかということでした。
このようにプライバシーは無い家屋のつくりながらも、日本では、プライバシーを、襖、屏風、衝立、欄間、暖簾、縁側などの「見立て」によって無意識化しているというお話でした。鍵もドアも壁もないのですが、紙、木、石などを間に置くことで、隣とは別世界であることを「見立てる」、日本独特の間合いの考え方なのでしょうね。
そして講義の後半は、“「無駄」を学ぶススメ”と題して、タイパ、コスバの悪いことや、すぐに役に立たないことであっても、起きた現象に対して素朴な「なぜ?」を考えること、「失敗」から学ぶことの大切さについてお話してくださいました。
授業を終えての学生の感想をいくつか紹介します。
境界意識とは、普通に踏み込めるけど暗黙のルールで境界を張ることなのかなと思いました。(O)
境界意識は、日本人特有の距離感やプライバシーを重要視する文化の表れだとわかりました。志賀直哉の作品、めちゃくちゃ好きなので嬉しかったです!私は今日6月30日が誕生日なのですが、夏越の祓いや水無月などまったく知らなかったので、他にも何があるか調べてみようと思いました。(S)
昔の日本人は壁や押し入れなどの物理的な仕切りではなく、襖や屏風などの見立てにより部屋を仕切っていたことが分かった。講義の中で、失敗から学ぶことが大切だという話にとても共感しました。(I)
無駄とは善意の場合もあるけど、受け取る側が嫌な思いをすれば無駄になってしまう。しかし、何事もチャレンジしなければ無駄になるか分からないからたくさん失敗する!(T)
プライベートな空間はなく、音や声は筒抜けだが、欄間で立ち入りを規制したり、襖や衝立や屏風で目隠しを作って工夫していたことがわかった。(H)
辻先生、楽しい講義をありがとうございました。