民俗学3年ゼミで巡見を行いました

10月31日に「日本文化専門演習Ⅵ(2)(伝統芸能・民俗学)」(担当:伊藤)の履修生と我孫子市布佐・湖北地区の巡見を行いました。今回は我孫子市内の民間宗教、とくに女性が主体となって行った民間信仰について学ぶことを目的として2地区内にある寺社を巡りました。また、事前にこれに関連する講義を授業内で行いました。

近世の布佐は銚子や常陸方面から利根川を伝い運ばれた魚などを、鮮魚街道(なまかいどう)により松戸河岸に継送りする拠点として栄えた町場の地域です。その鮮魚街道の起点に馬頭観音堂が建てられています。馬を使って運搬した時代の信仰がうかがえます。また、境内には如意輪観音が刻まれた石碑が多く祀られています。これらから地域の女性たちが月の19日の夜に集まり、女性を守護する如意輪観音が描かれた掛け軸を掲げた講がかつてあったことがわかります。こうした行事を民俗学では月待行事と言います。

新四国相馬霊場五十八番
「観音堂」
十九夜塔
(如意輪観音)
鮮魚街道・観音堂の見学
解説がありました

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湖北地区の正泉寺(我孫子市湖北台)は鎌倉時代の弘長3年(1263)、北条時頼の娘の桐姫(法性尼)が開山したと伝えられています。そしてこの寺院は「日本最初女人成仏血盆経出現第一道場」として広域にわたって信仰を集めてきところです。『血盆経』とは中国で10世紀ごろに作られた偽経で、日本には15世紀ごろにもたらされ、普及していきます。『血盆経』では、女性は出産や月経の血で地神や水神を穢し、その罪業によって死後に血の池地獄に落ちるとされ、そして血の池地獄からは『血盆経』を朗誦(ときには書写も)することにより救済されると説きます。正泉寺の縁起では手賀沼にその経文が浮かび上がり地蔵による救済が行われたとされています。

一方で、正泉寺の隠居寺である白泉寺(我孫子市岡発戸)には別な形式の女人救済の信仰が現れました。その中心は白泉寺に隣接し、白泉寺が別当を務めた待道大権現社(まつどうだいごんげん)です。待道大権現は近世末に湖北よりもおもに西側地域(我孫子・柏・沼南・取手・松戸など)に流行し、各地で待道講が組織されました。湖北の待道講では、地区の女性たちが信仰の対象として白泉寺の名前が書かれた「待道大権現」の掛け軸を掲げ集まったり、出産の際に妊婦の枕元に掲げられたといいます(現在、行われている場所は少なく、その形式も変わっていると聞きます)。このように待道講分布地域では、如意輪観音に代わり待道大権現が信仰の対象になっていったと考えられます。いわば、月待行事の神仏の交代劇が繰り広げられたといえます。

正泉寺の見学
午後は雨でした
待道大権現社
小さい祠です

『血盆経』やその影響下にあった「待道大権現」には、救済の論理をとりつつも、歴史のなかで創られてきた女性罪業観が確認できます。それでは、女性たちはなぜこうした神仏を信仰してきたのでしょうか。それを考えるにあたり、「待道大権現」に関する次のような話が注目されます。

お腹の大きい嫁と旦那の夫婦ものがいた。何かの都合で二人が待ち合わせをした。どこでどうまちがえたのか、嫁の方はここの道の側で待っていて、男の方は印旛沼のほとりで嫁の来るのを待っていた。お腹の大きい嫁はなかなか来ない男をじっと待っていた。その内産気づき、道の端にムシロを敷きそこで赤子を産んで死んでしまった。それで道を待つということから待道といわれるようになった。(出典:飯白和子「待道大権現とマツドッ講―市内における女人講の変遷過程を通して―」『我孫子市史研究』9、1985)

悲しいこの言い伝えには神仏による救済の論理はありません。さらに転じて「待童」と解釈する場合もあるそうです。つまり、正泉寺や白泉寺が用意しただろう論理とは全く異なる解釈を人びとは行っていたといえます。宗教の論理を超えようとする民俗の論理をここにみることができます。

※「正泉寺の血盆経信仰資料」は千葉県の有形民俗文化財、「白泉寺 待道講版木 附 待道講資料」は我孫子市の有形民俗文化財にそれぞれ指定されています。

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午後から雨が降ったりやんだり不安定な天気でしたが、信仰とは何かをそれを実践する人びとの視点で考える一日となりました。