【えいごコラム59】 「ど真ん中、ストレート」(2)

 

えいごコラム(59)

 

「ど真ん中、ストレート」(2)

 

前回のコラムでは、あさのあつこの『バッテリー』をとり上げ、現在とも過去とも判然としない表現が多用されていること、それが作品の魅力につながっていることについて話しました。またそのような表現は英訳が難しいとも述べました。でも、英語にはそういう表現はあり得ないのでしょうか。

 

英語において「文」による表現は必ず何らかの「時制」に属しています。時制には「過去」、「現在」、「未来」の3つがあり、さらにそれぞれが「単純」、「進行」、「完了」、「完了進行」の形をとります。これらによって、語られていることの時間的位置づけ、前後関係、経過などについて厳密に表現しうることは、英語のもつ大きな利点です。

 

しかしこれはその反面、何かを文で表現した瞬間、それがいつのことなのか厳密に定まってしまうということでもあります。とくに小説の記述に最もよく使われる「単純過去」が厄介です。単純過去は、文法的には「現在につながらない過去のことがら」を表すとされます。たとえば “He lived in Abiko.” と述べるということは、彼がもはや我孫子に住んでいないことを意味します。単純過去で語られる物語は、どうしても、それがすでに終わった、現在とは関係のないことがらであるという印象を読者に与えてしまうのです。

 

英語圏の小説家たちは、このような「時制」の機能が彼らの表現にとって一種の束縛となりうることを意識してきました。20世紀前半の英国で活躍した「モダニズム」の作家たちは、この束縛を脱するためにさまざまな実験的作品を書いています。たとえば有名なモダニズム作家であるヴァージニア・ウルフの『波』(The Waves, 1931)は、大半が登場人物のモノローグ(独白)で構成され、そのモノローグのほとんどが「単純現在」で書かれています。この手法についてある批評家は次のように論じています。

 

Typically, the pure present is used only in two instances: to indicate an action which is external but with no fixed location in time (“I play ball” or “I teach”); to indicate an internal activity exempt from any fixed duration or location in time (“I believe” or “I feel”). It thus “creates the impression of an act, yet suspends the sense of time in regard to it.” (Transue, p.137)

 

上の “pure present” は「単純現在」のことです。ここに述べられているように、単純現在は “I play ball” (私は球技をする)、 “I teach” (私は教師だ)のように、すぐには変わらない習慣や立場、あるいは “I believe” “I feel” のように信念や心情について述べるのに使います。つまり単純現在は「いつでもありうること」を表す時制なのです。ふつう単純現在は具体的な行為を記述するのには使われませんが、逆にそうすることによって、その行為の時間的位置づけをあいまいにする効果が見込めるわけです。

 

では、そのような単純現在のモノローグを『波』から引用しましょう。いちおう日本語に訳してみます。

 

I go then to the cupboard, and take the damp bags of rich sultanas; I lift the heavy flour on to the clean scrubbed kitchen table. I knead; I stretch; I pull, plunging my hands in the warm inwards of the dough. I let the cold water stream fanwise through my fingers. The fire roars; the flies buzz in a circle. (Woolf, p.64)

(それから私は戸棚へ行く。そして湿った袋に入った甘い干しブドウを取る。私は重い粉を持ちあげてきれいに拭いたテーブルに置く。私はこねる。私は伸ばす。私はひっぱる。手を温かい生地の奥につっこんで。私は冷たい水を広げた手の指にそって滴らせる。炎が燃え上がる。ハエがブンブン飛び回る。)

 

このような実験的手法はたしかに注目すべきものですし、もちろん『波』は高く評価されている作品です。しかし、物語としての自然さ、親しみやすさという点では、『バッテリー』と比べてどうでしょうか。

 

ようするに、モダニズム作家が英語としてはなはだ奇異な表現によって生み出そうとしている、登場人物の行為を今その場で起きていることであるかのように体験させるという効果を、『バッテリー』は物語としての自然さを少しも失わずにごく普通に実現しているのです。このことは日本語のある特質をあらためて浮かび上がらせます。

 

ふだん英語の時制をせっせと勉強しているわれわれは、言語表現が時間的指標をともなうのは当然だと思いがちです。しかし日本語による日常表現の多くは、実は、時間的位置づけがあいまいな発話によって構成されています。そのような発話は、単純な語句の中に、英語にするのが難しい多層的な意味をはらむことがあります。「ど真ん中、ストレート」という、日本語話者なら誤解しようのない表現を英訳しようとするとき、われわれはその事実に直面することになるのです。

 

何度も言いますが、翻訳って面白いですよ。

(N. Hishida)

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【引用文献】

Transue, Pamela J. Virginia Woolf and the Politics of Style. Albany: State University of New York Press, 1986.

Woolf, Virginia. The Waves. 1931. London: Random House, 2012.