中世フランス歴史紀行(3):フォントブロー修道院

フォントブロー修道院

 

隠修士ロベールなる者が教皇ウルバーヌス2世の命を受け、フランス西部を巡回し、各地で説教を続けたところ、追随者が増えすぎ、ついには移動に困難を来すようになりました。そこで1101年の復活祭の頃、偶々この地を訪れた一行が定住を決断したとされます。

 

このように当初から老若男女、健常者と病人と、雑多な人々が混在していたために、5つの修道院を設立し、それぞれが独自に運営することにしました。ロベール死後、女子修道院長が代表となり、それが習慣として定着し、革命まで続きます。

 

この女子優位の伝統が早々に確立したためか、王家や貴族の女子を多く受け入れる場となり、その中にはアンジュー家の人々も混じっていました。1149年から55年まで院長を務めたマチルドはアンジュー家の出身で、アンリ・ダンジュー、つまり後のイングランド王ヘンリー2世の叔母に当たります。

 

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写真1

 

上の写真1は奥がそのアンリ・ダンジューすなわちヘンリー2世の墓で、手前が妃アリエノール・ダキテーヌの墓です。もう少し先には彼らの子リチャード1世ライオンズ・ハートも眠っています。このように覚めることのない眠りについた(ジザンgisant)人物像を彫刻し、彩色した墓石(これもジザンと言います)が散見されます。

 

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写真2

 

写真2は修道院の建造物の外側です。魔除けでしょうか? コミカルですね。