えいごコラム(29)
寡黙な日本語 (2)
前回のコラムでは、日本語にはお互いに了解していることは口にしない「寡黙さ」があると述べました。漫画のセリフにもそれが示されており、英語では省略できない主語や目的語などを書かずにすませられることは、表現の簡略化に大いに役立っています。
しかし、たんに言わなくても分かっている主語や目的語を省略するというのではなく、もっと肝心な点をあえて口に出さない、という「寡黙さ」も日本語にはあります。漫画の簡潔なセリフの中にも、ときにはそうした特質が顕れていることがあるのです。今回も 『ONE PIECE』 を題材にしてその話をしましょう。
とりあげるのは第5~8巻の「海上レストラン バラティエ」のエピソードです。この話で、ルフィとコックのサンジは、レストランを奪おうと襲ってきた海賊「首領(ドン)・クリーク」の一味と戦います。第7巻でサンジはクリーク一味の幹部、ギンと死闘を繰り広げます。サンジは第5巻で飢え死にしかけていたギンに飯を食わせてやっており、ギンはそれを恩に着ています。彼は敵ながら義理堅い男で、首領であるクリークへの忠誠心と、サンジへの恩義との板挟みになって苦しみます。
戦いの決着がついた第8巻、倒されたクリークを肩に担いだギンは、サンジに向かって、これまで首領に言われるままに行動してきたが、これからはそうせず、自分のやりたいように生きていく、と述べます。そのセリフを見てみましょう。
コマ |
話者 |
セリフ |
p. 89 1段目 |
ギン |
今度はおれの意志でやってみようと思う・・・好きな様に |
From now on, I’m going to steer my own course. |
||
p. 89 2段目 |
ギン |
そしたらもう 逃げ場はねェだろう? |
And if I do. . . I’ll be hunted like a wolf. |
問題は2段目のセリフです。ギンの言う「逃げ場はない」は、文字どおりにとればネガティブな発話ですが、じっさいは「もう首領への忠誠を言い訳にして逃げることはしない」という彼のポジティブな決意を表しています。しかし英訳ではここが「おれは狼のように狩られるだろう」となっています。つまり「狩りたてられて逃げ場がなくなる」という、文字どおりのネガティブな意味に解釈してしまっているのです。
このような訳になっているのは、おそらく翻訳者が、ギンのセリフは彼の前向きな決意を表現しているのだ、ということを読み取れなかったためだろうと私は考えています。原文の趣旨を生かすなら、たとえば “And then. . . I’ll have no excuse.” (そうすれば、もう言い訳はできない)のようにしたらよかったかもしれません。
これも日本語の「寡黙さ」のひとつです。本当は前向きな思いを抱いているにもかかわらず、それを「逃げ場はない」という、否定的に解釈できる言葉で表明する・・・すなわち、真意をあえて「語らない」ことでそれを表現するという姿勢です。日本語話者であればギンのセリフを誤読することはないでしょう。それは私たちが、人の心情がそのような形で表されることに馴染んでいるからです。
しかしこれは英語話者にとってはかなり理解しにくい表現です。上の例のように、翻訳を職業としている人でさえ、ときには読み違えることもあるのです。英訳という行為を通して、こうした日本語の特質があらためて浮かび上がってきます。
ところで、今回と前回のコラムのもとネタは、昨年度のゼミ生の卒業研究の一部です。この3月にみんな晴れて卒業したので、もういいかな、と思って使わせてもらうことにしました。ここに謝意を表します。
(N. Hishida)
【引用文献】
尾田栄一郎、『ONE PIECE』第8巻、集英社、1999年
Oda, Eiichiro. ONE PIECE. vol.8. Trans. Naoko Amemiya. San Francisco: VIZ, 2005.